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2013年4月25日 (木)

千古不易その1

 医者の求人広告を出しても全然反応がない。大学の同窓会誌に求人広告を出したいと交渉したら、同窓生の紹介文があれば広告は無料となるとのこと。ついては紹介文を書いてはくれないだろうかと病院上層部から頼まれた。

 拒絶する道理もなく、どうせ書くなら自分の書きたいように書かせてもらうことを条件に、佐倉の歴史から病院を紹介することにした。以下に連載ものとして記述する。

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 国内留学でお世話になった旧都立清瀬小児病院(現都立小児総合医療センター)のボスから、「佐倉に清瀬方式の小児腎臓病拠点を作りたいのだが、一肌脱いでくれないか。」と告げられた。ボスの下で行った仕事で学会奨励賞を受賞したのが舞鶴病院勤務時代の2003年。この年舞鶴でボスの講演会を企画し、講演の翌日、天橋立の袂でブリしゃぶをつつきながらのことだった。他ならぬボスの意向とあらば勿論行かせていただきますと返事をした翌年の春、佐倉の地に立った。しかし千葉と言えばディズニーランドと成田空港しか足を踏み入れたことなどなく、他に成田空港建設反対闘争と落花生くらいしか頭に浮かばぬままでは心許ないと考え、仕事開始と同時に佐倉の歴史を調べ、肌で感じてきた。

 

 

大船の香取の海に錨おろし

  いかなる人が物念はざらむ (柿本人麻呂)

 

はるか千年の昔、万葉集で歌われた香取の海は、霞ヶ浦、北浦、牛久沼、手賀沼、そして印旛沼などで構成された汽水湖であった。その後、承平年間から天慶にかけて、平将門がこの印旛沼を臨む佐倉に居を構え、房総一円に覇を唱えた。ここ佐倉は、平将門の繁栄期から千葉氏の本佐倉時代を経て徳川幕府、当時江戸城東の護として徳川随一の譜代大名を封じて房総諸般を制圧していた時代こそ房総で最も反映を極めた地域と言われている。

 

 

くみてこそ むかしもしのへ ゆく川の

  かえらぬ水に うかふ月かけ    (水野忠邦 辞世の句)

 

 

 香取の海は時を経て次第にその姿を変え、流域の川も度重なる洪水によりその流れの方向を変えた。実は江戸時代には江戸城のすぐ間近を旧利根川が流れており、この旧利根川が度々洪水にて氾濫し、江戸に水害をもたらした。治水、新田開発、水運ルートの整備などを目的とし、川の流れを現在の利根川へ、そして印旛沼および新川、花見川を江戸の海から銚子の浜への水路とする計画が立てられたのは当然のことらしい。しかし一帯は泥炭で覆われており、掘っても直ぐに泥で埋まってしまう極めてやっかいな湿地帯であった。このため特に江戸時代には全国から人夫が集められ、多くの犠牲を払う難工事が続いたとのこと。そう言えば昔読んだ松本清張の天保図録では、とりわけ天保期(老中水野忠邦の時代)は我が故郷鳥取藩と庄内藩が最難関の部署を受け持ったと書かれていたのを思い出す。詳細は様々な書籍が出ており、ネット検索なら千葉用水総合管理所のHPで作家高崎哲郎による印旛沼掘割普請始末期(http://www.water.go.jp/kanto/chiba/mizutotomoni.html)が参考になる。その後大正時代にかけて大規模な印旛沼掘割計画が施行され、大きな洪水被害のない現在の水路を完成させた。

 

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