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2013年4月30日 (火)

足跡 その1

 まだ防衛庁だった今から10年ほど昔、海上自衛隊の医者として船に乗っていた。ある年は365日のうち250日も洋上で訓練する自衛官と共に居た。護衛隊群の医務長という肩書きだった。

 医務長として赴任するよう命令が来たときは戦闘なんて遠い彼方の存在だった。もちろん命のまま赴任したが、相手は健康が取り柄の自衛官達。自分の必要性を疑う日々だった。おそよ1600名ほどの組織で、病院への通院者、入院者の把握をすることが日課で、怪我人が出たときに応急処置を施すのが関の山だったからだ。これくらいのことなら、慣れた看護長(準看免許あり)が居れば事足りる。長期の行動予定があれば、そのときの臨時派遣くらいでよいのではないかと思っていた。

 護衛艦には看護長と看護士が乗り込んでいた。彼らは隊員の疾病の把握を常時行っており、健診の結果も皆知っていた。彼らの役割は、それ以外に隊員へ救急救命処置を行うことや、隊員でもできる一次救命処置を指導することだった。船員法という法律があり、医者が居なくともとりあえずの救命処置は許可されていたが、さすがに戦闘もない現場では、年長者であっても技術の向上など望める状態ではなかった。看護兵は衛生員と呼ばれていたが、彼らが勉強できる機会は、現場ではなく、仮想訓練としての模擬体験でしかなかった。

 暇で仕方のない私は、衛生員の技術を向上させ、医者が常時乗り込まなくともよい環境を作れないかと考えていた。断っておくが彼らの能力そのものが高い事は疑いようもない。それを生かす現場ではないため、日々を幾分無駄に過ごしていたのだ。やる気、やらなければという気持ちだけでも起こさせる何かがないだろうかと思案する日々だった。勉強会をしてみたが、覇気は感じられず。実技講習をやってみたが、通り一遍のことならそつなくこなしてしまった。さて・・・

 現場の大切さ、臨場感を味わえる場所・・・大学に送りこむか?いやいやあそこは研修医が学ぶところで、衛生員が行っても見ているだけで終わってしまう。近くの病院でも同じだ。医者が居るところでは人任せになるだけだ。。。それなら救急車はどうか?あそこならとりあえず何とかしなくてはと考える救急隊員が乗り込んでいる。ちょうど救急救命士なるものが養成さレ始めたところだった。なんとか衛生員を救急車に同乗させてもらえないだろうか。

 救急車は消防庁の管轄だろうと思っていたら、あれは東京消防庁。地方の現場にいるのは市町村管轄。ということで呉の役場へ出向くと、国の機関である自衛隊の皆様に地方役場の者が教えられることなどなにもありませんと丁重に断られた。それはあくまでも建前の話、その実、現場を知るのは救急隊員であって護衛艦の衛生員ではないのだと説明しても無理の一点張りだった。

 諦めかけたそのとき、消防担当の林さんが言葉をかけてくれた。

 

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2013年4月29日 (月)

連休前半

連休前半
昼間は印旛沼へ

今から深夜の急病診療所当番です

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2013年4月28日 (日)

高く強く

高く強く
悠々と泳いで欲しいのだが

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2013年4月27日 (土)

連休初日

連休初日
風が強い
カヤックの日和ではない
これから外来
丁度いい

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2013年4月26日 (金)

千古不易その2

紅水鶏(べにくいな)まだしづけくも なきいでて
  見渡すかぎり 青田ゆふ風 (吉植庄一郎の息子、歌人吉植庄亮)

 

 長崎での遊学後、江戸で蘭医学塾を開いていた佐藤泰然が、佐倉に移り住み、天保14年に順天堂を開設した。これを契機に、「西の長崎、東の佐倉」と呼ばれるほど、佐倉はオランダ医学の拠点として多くの医学の徒を排出した。その後明治維新を経て、佐倉には東京鎮台佐倉営所病院が設立された。同時期に陸軍の佐倉連隊が組織され、終戦まで10連隊が編成される大規模な部隊となった。先の病院は昭和11年に佐倉陸軍病院となり、終戦と同時に国立佐倉病院と名称を替えた。国立佐倉病院は療養所への転換時期を経ながら発展し、昭和52年には国の腎不全対策の基幹施設となり、腎移植センターとしての機能を付与された。しかし国立病院機構の統廃合により、現在の病院として生まれ変わる時に私は赴任した。

 

春は猶さくらの町の七重八重

  枝道かけて今をさかり場 (十返舎一九)

 

 現在も国立佐倉病院の腎疾患治療を担っていたスタッフがここに残り、地域随一の腎センターを運営している。なにより小児から成人まで全年齢にわたる腎疾患に対する医療が可能であり、透析・移植まで幅広く対応できる機能を有している。小児科では、私が赴任する前から腎臓疾患の診療は行われており、以前清瀬でお世話になった医師が部長を務めている。私と大学の後輩と合わせて3人が小児の腎臓を専門にしており、プライオリティーはもちろん腎疾患に置いているが、地域医療を考えると、日常診療は感染症やアレルギー疾患で大入りとなる普通の小児科である。ただこれまでの歴史もあって、新しい事へチャレンジしやすい環境であり、倫理委員会も手早く実行してくれるなど、治験への参加や主導も行える病院だ。未承認の予防接種の輸入や震災への医療支援も積極的に参加できるなど、やりたいことを実現させてくれる希有な存在と私は思っている。

実はこの病院は腎尿路系の疾患だけが売りではない。整形外科による小児の側彎症治療では全国的に極めて有名な病院で、関連したせぼねセンターも充実し、短期留学してくる他国の医師もいる。その他内視鏡センター、リハビリテーションセンター、生活習慣病センターなど診療体制は多岐にわたり、系統的な診療ができるよう構築されている。おまけに画像診断装置ではヘリカルCT3テスラMRIを揃え、最新の放射線治療機器バリアンを備えた放射線治療部門も発足している。しかしながら、現在の千葉は対人口比率で最も医者の少ない地域の一つであり、周囲に存在する大学病院(千葉大・東邦大・日本医大・女子医大・帝京大)ですら人員の確保に窮している状況である。

 そんな訳で、ここも医師を募集している。電車を利用すると成田空港まで30分、東京1時間、新宿1時間20分という立地で、3次救急は周辺の大学病院が受け持つという環境は動きやすく、働きやすい。もちろん良いことばかりの病院ではなく、常勤医の少なさから出来ない事は山ほどあり、図書の数も少ない。動かせる資金は各科順番ということもあり、小児など優先度が低い。しかしまだ出来て10年目の病院であることから、医療スタッフ間の風通しは良く、300床クラスでありながらお互いの顔の見える医療が出来るというのが最大の利点だ。大学間のしがらみもなく、腕試しがしたいと考える医師にとってはこの上ない病院であるとお薦めできる。

 世は大きく変われども、千古不易の佐倉の心を持ち、世界へ医療を発信できる病院ここにあり。

 ってな文章を綴ってみた。来てくれる医者はいるだろうか・・・

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2013年4月25日 (木)

千古不易その1

 医者の求人広告を出しても全然反応がない。大学の同窓会誌に求人広告を出したいと交渉したら、同窓生の紹介文があれば広告は無料となるとのこと。ついては紹介文を書いてはくれないだろうかと病院上層部から頼まれた。

 拒絶する道理もなく、どうせ書くなら自分の書きたいように書かせてもらうことを条件に、佐倉の歴史から病院を紹介することにした。以下に連載ものとして記述する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 国内留学でお世話になった旧都立清瀬小児病院(現都立小児総合医療センター)のボスから、「佐倉に清瀬方式の小児腎臓病拠点を作りたいのだが、一肌脱いでくれないか。」と告げられた。ボスの下で行った仕事で学会奨励賞を受賞したのが舞鶴病院勤務時代の2003年。この年舞鶴でボスの講演会を企画し、講演の翌日、天橋立の袂でブリしゃぶをつつきながらのことだった。他ならぬボスの意向とあらば勿論行かせていただきますと返事をした翌年の春、佐倉の地に立った。しかし千葉と言えばディズニーランドと成田空港しか足を踏み入れたことなどなく、他に成田空港建設反対闘争と落花生くらいしか頭に浮かばぬままでは心許ないと考え、仕事開始と同時に佐倉の歴史を調べ、肌で感じてきた。

 

 

大船の香取の海に錨おろし

  いかなる人が物念はざらむ (柿本人麻呂)

 

はるか千年の昔、万葉集で歌われた香取の海は、霞ヶ浦、北浦、牛久沼、手賀沼、そして印旛沼などで構成された汽水湖であった。その後、承平年間から天慶にかけて、平将門がこの印旛沼を臨む佐倉に居を構え、房総一円に覇を唱えた。ここ佐倉は、平将門の繁栄期から千葉氏の本佐倉時代を経て徳川幕府、当時江戸城東の護として徳川随一の譜代大名を封じて房総諸般を制圧していた時代こそ房総で最も反映を極めた地域と言われている。

 

 

くみてこそ むかしもしのへ ゆく川の

  かえらぬ水に うかふ月かけ    (水野忠邦 辞世の句)

 

 

 香取の海は時を経て次第にその姿を変え、流域の川も度重なる洪水によりその流れの方向を変えた。実は江戸時代には江戸城のすぐ間近を旧利根川が流れており、この旧利根川が度々洪水にて氾濫し、江戸に水害をもたらした。治水、新田開発、水運ルートの整備などを目的とし、川の流れを現在の利根川へ、そして印旛沼および新川、花見川を江戸の海から銚子の浜への水路とする計画が立てられたのは当然のことらしい。しかし一帯は泥炭で覆われており、掘っても直ぐに泥で埋まってしまう極めてやっかいな湿地帯であった。このため特に江戸時代には全国から人夫が集められ、多くの犠牲を払う難工事が続いたとのこと。そう言えば昔読んだ松本清張の天保図録では、とりわけ天保期(老中水野忠邦の時代)は我が故郷鳥取藩と庄内藩が最難関の部署を受け持ったと書かれていたのを思い出す。詳細は様々な書籍が出ており、ネット検索なら千葉用水総合管理所のHPで作家高崎哲郎による印旛沼掘割普請始末期(http://www.water.go.jp/kanto/chiba/mizutotomoni.html)が参考になる。その後大正時代にかけて大規模な印旛沼掘割計画が施行され、大きな洪水被害のない現在の水路を完成させた。

 

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2013年4月21日 (日)

good-bye広島

good-bye広島
旨かったぜぃ

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2013年4月20日 (土)

流川八昌

流川八昌
流川八昌
ネギ焼きのあとはこれ!

最高〜

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ドドーン

ドドーン
大迫力

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2013年4月19日 (金)

広島

広島
辛いつけ麺が広島流らしい
やっつけてみるか!

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2013年4月10日 (水)

祭り

祭り
佐倉ふるさと広場でチューリップ祭りが始まるよ

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2013年4月 9日 (火)

まさかと思うが

北は東京に核を打ち込むつもりか?

中国には尖閣を韓国には竹島を手土産にとすれば言い訳はたつ。どうせ世界は非難し続けるだけ。経済封鎖も代わり映えしない。唯一の懸念はアメリカだが、本当に核ミサイルを打ち込めたら、下手に手出しは出来ないだろうって算段があるのかも…怖いもの知らずの若造だけに、何をしでかすかわかったものではない。

勿論非現実的と笑い飛ばしたいが…

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2013年4月 1日 (月)

もうちょっと

 前回、一票の格差は違憲という件を取り上げた。その後医局休憩室で昼飯を食べている時に、偶然○▽おびとか言う番組で、アメリカの一票の格差を例にとって議論がなされていた。アメリカは1.003倍の格差を違憲として早急な対応を求めている。平等を勝ち取った国は心構えが違うと話していた。本当だろうかと調べてみると、連邦下院はこのようだが、上院は各州2名と決まっていて、格差は40倍を超えるそうな。これも言わないとおかしいと思わないのだろうか?

 全く別件だが、NHKではLNGの高騰問題に関する番組へある研究者が出演要請を受けたが、その研究者が原発再稼働も視野に入れる発言を過去にしており、宗旨替えしなければ出演を断るとしていた。この国は議論も出来ん国かいな?

 いわゆる空気なんてものを作り、扇動するってことだろう。ちょいとおかしいんと違うか?空気なんて糞くらえ、双方の意見を交えてちゃんと議論すべきだ。

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