« 夏祭りだぜ | トップページ | 余韻 »

2011年7月26日 (火)

信じること

 信じてあきらめないということは心情的にとてもわかりやすく、好感が持て、時にとても素晴らしい結果を生む。しかし盲信・狂信となると話は違う。

 イスラムのことを悪く言う人達がいるが、イスラム原理主義という狂信集団が狂気を生み出しているわけであって、それはどの思想原理主義でも変わらない。キリスト教なら良いって?t例えばこのたびのノルウェーの悲劇はキリスト教原理主義の男によって引き起こされたものだ。

 世界で行われる暴力行為の多くはこの盲信、排他主義から発生している。人間の性質上、これだけ情報を共有できる世界になっても未だ紛争は絶えない。情報の渦やグローバル化の波から身を守るために、かえって排他・原理主義に傾いてしまうのかもしれない。

 何を持って悪であり正義であるかは、その人の立場によって変わる。排他的な環境にある人は自分たちの仲間内だけが正義であるだろう。少しの抑圧があれば、それが巨大なエネルギーとなって、暴力という形で噴出してしまう。

 こう述べている自分こそ、そういう状況にいるかもしれない?いやこういったことを語ることで、抑圧を受け流し、他者を考える刹那を生み、それによってニュートラルな状況へ身を置くことが出来るのではと勝手に思っている。信じることは大切だ。しかし過ぎたるは及ばざるがごとし。そう、すべてのことは中庸が肝心なのだ。

 さて、それならばこのたびの中国での高速鉄道の事故をどうみるか。中華思想のため、中国当局および中国の経済・技術革新の成果をみせるため、情報を操作しようと躍起になっている中国政府の言動は、全く信用できない(それはいつの時代でもそうだと言いたいところだが・・・)。彼らは知らないのだ。情報を開示し打開策を図る方が、信頼と進歩を勝ち得ることを。つまりは自分たち自身を信じられていないということであろう。

 驚いたことにネットで知りうる限り、抑圧されていたかの国人民の声が、自由に物言う人達に近づいていることを伺わせている。少なくとも中国政府を彼らは盲信していない。中華思想については愛国教育が施されているため、随分激しい漢民族原理主義に移行してもよさそうだが。反日くらいであればそれもないだろうが、反欧米となってくると可能性は高くなる。だが政府が自分の国を信じていないならば、それも気にする程のこともないのだろう。ということは、注意すべきではあるが恐れる必要のある国ではない。

 翻って日本はどうか。日本国を盲信している人はいるか。神国日本と唱える者がごく少数いるが大多数は何処吹く風であろう。しかし大いなる村社会は突如として皆が同じ意見であることを強要し、大政翼賛へ走る傾向にある。成熟していない上辺だけの民主主義により、国民は義務を果たさず権利ばかりを主張する。すべてのことはリスクを伴うことを忘れ、自らの利益ばかり追い、事が起こると誰かのせいにする。皆同じでないと不安で、自分を信じられず、そしてなんとなくだがお上はわるいことなどしないと思いたがっている国民なのだ。だからすぐにマスコミに誑かされる。しかし盲信せずとも、この美しい日本を守りたいと思う気持ちに偽りないという人は多いだろう。

 さああなたは何を信じて生きますか。

|

« 夏祭りだぜ | トップページ | 余韻 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 夏祭りだぜ | トップページ | 余韻 »