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2008年3月31日 (月)

わったい

 3月のブログを眺めてみると、医療系の話がひとつもない・・・・

 わったい、しゃった~(=あっ、しまった! 鳥取方言)と頭を抱え込んでも仕方がない。これらの記事が私の頭に浮かんでいただけのことなのだ。もちろん日々の診療は続いている。春休みになって腎生検や低身長に対する負荷試験で入院する子供達も出入りしている。なごやかな診療を続けているせいか、ネタは今ひとつ・・・ということかもしれない。

 どうでもいいことだが、先日腎生検を行った高校生男子。髪に長~いカラーピン留めをしていた。近年時々見掛けるが、至近距離で見たのは初めてだった。私の感覚ならあれはナシだ。格好悪すぎる。格好でダメなのは他には半ケツだろう。腎生検は結局半ケツにするから、腎生検前だけならOKだが・・・

 あっ、っとわったい。また医療からはほど遠い話だった。

 

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2008年3月30日 (日)

夜桜

夜桜
下町深川の夜桜。雨に濡れた淡い光もまた美しい。

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柔軟に

 楽天の『マー君』こと田中投手が、昨日のマウンドで新たな境地に入った。これまで奪三振、それも直球勝負にこだわり、昨年のプロ野球を大いに湧かせた若者が、大投手となるためのコツをつかんだ瞬間だったように思う日が来るかもしれない。

 立ち上がりに不安定なまま直球勝負を挑んだ彼は、相手打線に思いっきり打たれた。そこで丁寧にコースを突き、変化球を織り交ぜたところ、面白いように内野ゴロばかり打たせて捕ることが出来たのだ。大胆&豪腕も投手の醍醐味だが、それを持ってのコーナーワークがどれほど観客を酔わせるか身をもって知ったことだろう。田中投手のこれからが本当に楽しみだ。

 大胆に変わる瞬間は若者の特権なのかもしれない。年を取れば、守るものがあるせいかなかなか変われない。

 政治家はそれの最たるものなのだろうか。親中派福田首相には中国が悪いことをするなど考えも及ばないようだ。共産党独裁で言論統制も行っている国家を正常な国と言えるはずはない。その共産党の発表をもってしてチベット問題へは冷静な対応をという政治センスには疑問を禁じ得ない。昨今のアホな民主党による国会空転で正常な判断が出来なくなるほど疲弊してしまっているのかもしれないが、あまりにひどい。

 翻って私自身はどうであろうか。柔軟性や変わる勇気はまだ持ち合わせているだろうか。一応チャレンジする気力は残っているつもりではあるが、果たして・・・

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2008年3月27日 (木)

桜 花ひとつ

 沈丁花の薫る街を抜け

 印旛沼に辿り着く

 渡り鳥たちの姿は消え

 草や木の芽吹きを

 ユキヤナギが歓迎する

 空を仰ぐと

 青の中に桜 

 花ひとつ揺れる

Sakura08

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とてつもなくつまらん

 久々にフットボールの話題を少々。

 我が浦和レッズは散々な開幕を迎えた。中盤の選手がいなくなってしまい、サッカーを構築することが難しくなるだろうと予想はしていた。それでも中盤の底に安倍と鈴木を置き、トップ下に永井(適所ではないがこの人しかいない)、右に山田、左に相馬という中盤を作るか、永井の代わりに新しい梅崎を試すべきだと思っていたら、山田をトップ下に置いてしまった。これでは折角の浦和ダイナミズムがなくなってしまう。もう戦前から結果は見えていた。オシムの言う水を運ぶ選手を適所に置いていないからだ。

 昨日の代表戦もそうだ。鈴木・中村・山瀬の間でどれだけパス交換があっただろう。水を運ぶ動きがなければ、あとは草サッカーしかない。ポンポン蹴るだけ。代表戦であれだけボールがポンポン弾む姿を見るとは思わなかった。恥ずかしくって悔しくって情けなかった。

 うさは自分のプレーで晴らしたいところだが、いろいろとさぼっていたせいでキレがない。

 あぁ、春なのにつまらん・・・・

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2008年3月26日 (水)

都の西北

 といっても早稲田の森ではない。今は都心が新宿であるから、都の西北とは新宿から埼玉へと続く西武線沿線のことである。詭弁にも聞こえるがご容赦願いたい。

 私の大学時代からこれまでの間で最も長く住んでいたのがこの地である。のべ12年をほぼ埼玉県所沢市で過ごした。といっても学生時代は全寮生活であったので、それほどこの土地を詳しく知ることはできなかった。なにしろ朝6時半に起床しすぐに点呼のため屋外広場に整列しなくてはならず、夜は21時50分に各寮の廊下に整列しなくてはならなかったのだから、外でうろうろすることなど叶わなかったのだ。

 それでもいろいろなところへ出掛けた。海も山も川も近くにあるわけではないので、自然と遠くへ出掛けていた。自転車圏内では、北は吉見百穴、南は三鷹、西へは飯能まで行った。車に乗るようになってからは秩父・長瀞が大好きで本当によく出掛けた。それほど出ずとも所沢には花の名所でもある航空公園があり、ちょっと散歩したり、ジョギングを楽しむこともできた。このあたりは犬と猿さんがとてもよくご存じのことと思うが、市民の憩いの場としてとても素敵な公園であった。特に冬のよく晴れた日に芝生の丘からながめる富士山は格別で、部活のない休日にゆっくり寝転んで眺めたものだ。

 食べることも買い物もやはり東京が中心であり、所沢で済ませようというつもりは市民にもあまりなかったのではと推察する。買い物なら西武百貨店くらいだろうか・・・それでも食べ物は結構いけるところを何軒かは知っている。

 まずは天ぷら。西武新所沢駅まえの『天弥』はおそらく都内の名店と比較しても遜色ないだろう。特に先代の揚げた天ぷらをカウンターでいただく旨さと来たら今でもヨダレが出てしまうほどだ。それから鰻なら同じく新所沢駅から川越方面に1キロほど行った北所沢にある『希文』だろう。注文を受けてからさばくので目の前に出てくるのは30分ほど後になるが、それを待っても余りある美味さだ。特に白焼きは絶品で、他の鰻屋には行けなくなる。寿司はどこも並だが、これも新所沢駅前の『盛り寿司』なら満足できるだろう。寿司も良いが刺身や焼き物がこたえられない。うどんならとなりのトトロでも出てきた松郷あたりにある『甚五郎』だろうか。本当なら入曽方面に『しめめん』という変わったうどん屋があったのだが、そこは親父が倒れてから店を畳んでしまった。そこの山かけうどんは最高だったのだが・・・蕎麦は、う~~~ん、お薦めできるほどの店は残念ながらない。浦和にある藪なら最高の辛み大根の蕎麦がたぐれるのだが、所沢には見当たらない。ラーメンなら昔はトップ軒という行列の出来るラーメン屋があった。しかし店を大きくしてからは行く気持が萎えてしまった。ちょいと離れるがJR北秋津駅前の『ほらふき』は無二のラーメンを誇っていた。しかし親父がバーンアウトしてしまい今はない。他のラーメン屋は一長一短だろう。落ち着いて彼女と行くなら所沢駅前のNO NAMEというbarもいい。その横にある和食『みや』も粋な料理を出してくれる。

 所沢はベットタウンだ。若者は皆都内を向いている。しかし家を構えた後の人達は所沢で人生を楽しむように変化している方々ももちろんいる。私が所属していた男声合唱団『所沢メンネルコール』などはその代表格であろう。おじさんばかりの合唱団だが、昔やっていた人も多く、志高く練習に励んでいて、全国大会出場を叶え、合唱団委嘱作品も持ち、海外演奏旅行までしてしまうとんでもなくいけてる合唱団であった。その他にも市民クラブとして様々な活動が活発に行われていると聞く。もっともっとなじめば面白かっただろうと思うが、医者になりたての私にはその合唱団ですら結構厳しかった。

 さて様々な場所につき、私の独断を述べてきた。もっと深く知れば楽しいことはよりたくさんあったことだろう。しかし割と短い期間によくここまで楽しんだものだと自負できるところもある。結局楽しんだ者勝ちであろう。

 皆様もどうか、出掛けた土地、そして出会った人達と楽しく過ごしてみて欲しい。きっと意中の場所ではなくとも心を揺さぶられる体験が待っていることだろう。

 

 

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やはり京大

 コメディアンの爆笑問題がその道のエキスパートと対談し、たわいのないアホ話から最先端ないしは真実の話を引き出すNHK『爆問学問』が毎週火曜日に放映される。昨夜は特別番組として90分、京都大学キャンパスに教授&学生を集めて対談が繰り広げられた。

 自由な校風で知られる京都大学は多くの先人達を世に送り出している。ノーベル賞を受賞するなど華々しい方もいれば、ひっそりと自分の学問に打ち込む人もいると聞く。私は親子2代に渡って京都大学医学部にそっぽを向かれた口であり、未練もわずかに残っている?のかもしれない。京大と聞くとそわそわしてしまうのだ。予備校時代に左京区百万遍に下宿を借り、古本屋で立ち読みを繰り返しながら受験のまねごとをしていたのだから無理もない。

 内情はどうかは知らないが、教授陣の面白さはやはり群を抜くのではないだろうか。この先生の講義を聴いてみたいと心底思った。自然科学、社会学、言語学(中国思想?)など様々な教授が登場したが、皆何かしらを持った人物と映った。私は自分の母校を卑下するつもりは全くないのだが、こういった幅広い学問に触れる機会がなかったことを残念に思っている。まぁ今からでも遅くはないのだが。

 番組そのものはいつもの通り太田某が創造性というキーワードを元に、ねじれ表現を繰り返しながら教授や学生の本心を少しずつ引き出すというお決まりのパターンであった。見ている者は結局「飾らず、奇をてらわず、信念を持って物事に打ち込んだ時、あらゆる不純なものが削ぎ落とされ、創造される真実がある」ということに辿りついたのではなかろうか。そしてその過程を辿るものとして、大学教育は下地と議論する仲間を見つける場であればよいというのが京都大学という学問の中心地なのだろう。

 京大ってやっぱり面白い!

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2008年3月18日 (火)

卒業

 長男が小学校を卒業した。思い出が走馬燈のようにという感じはまるでなく、大きくなって飯も自分より多く食べる彼を不思議な感情で眺めるようになっている自分を感じた。これからの自分の生き方を在校生たちの前で叫ぶ彼は、自分とは全く違う男に変わっていた。そう、今まで息子達は私の分身という思いが少なからずあったが、今の彼にはそれが薄れているのだ。時折見せる私には無い勇気と優しさで、彼はとても人気があることもわかった。

 そんななか卒業式が始まった。用意された式次第、用意された祝辞、用意された在校生の言葉、用意された巣立ちの言葉、そして用意された歌・・・それとわかっているのに、込み上げてくるものがあった。ただのセレモニーではなく、子供時代との決別宣言を聞かされているようであった。

 ここから先は、親父として本腰を入れてかからないとダメだと感じた。褌を締め直して、しっかりと生きてゆこう。

 

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2008年3月14日 (金)

もそっと

 お国自慢シリーズはもう結構と思われるかもしれないが、あと2カ所ほどお話ししておきたい場所がある。是非ともお付き合い願いたい。

 私がこの町にやってくる直前に赴任していた地である。かの地の人間は

関西弁をしゃべるのにボケもツッコミもしない

ジメジメして内向的である

同じ県内の人に「冗談言わんといて下さい。舞鶴は京都やおへん。」

と言われてしまう引き揚げの地、舞鶴である。

 舞鶴は鳥取と似たような土地柄である。冬に晴れ間はなく、透明度の高い海岸が北に続いている。人もとてもよく似ていると思うが言葉が関西人であるが故に激しい違和感を抱くことが多い。もちろん言葉も関西のイントネーションの上に舞鶴独特の方言が重なったものであるので、それと判れば違和感もなくなってくる。

 位置としては京都府の日本海側で原発銀座と言われる若狭湾の裏側であり、古くは大陸からの表玄関であったところだ。その後第二次世界大戦で抑留されていた人達が引き揚げ船に乗って本土へ辿り着いた港がここである。かの『岸壁の母』の舞台は舞鶴なのだ。港の近くの山間に引き揚げ記念館があり、そこでは抑留者の声やそれを待つ人達の叫びが記されている。

 舞鶴にはもっともっと古い歴史が存在している。安寿と厨子王という物語をご存じであろうか。その舞台も舞鶴で、安寿塚が海岸の近くに建てられ、今でも供養に訪れる人が後を絶たない。絵巻物になっている大江山の鬼退治も舞鶴が舞台だ。この大江山には伊勢神宮の元となった元伊勢神社がある。その深い山では八百万の神様の存在を感じずにはいられない。ここから今の伊勢神宮へと遷宮されていったのだ。それ故舞鶴人の秘められたプライドを想像するのはそれ程難しいことではない。

 舞鶴から東へ数分走ると最近元気のよい小浜がある。以前記事にしたこともある神社とお寺が一緒になった神宮寺など大変珍しい歴史建造物も多い土地柄である。その神宮寺では今年もお水送りの行事が滞りなく行われたらしい。実際に小浜からは宗教や文化だけでなく、人も物資も都へ運ばれており、まだ保冷が出来なかった時代に鯖をへしこにして京都へ運んでいた。そのため鯖街道という道が京都へ続いていた。現在この道を利用する人は少ないが、歴史を感じる街道であることは間違いない。

 西へ少し走ると天下の天橋立がある。私個人の意見では、ここよりむつ大湊の芦崎の方が上だとは思うが、天下の名勝と言われている。自分の股の間に頭を突っ込んで見晴るかす展望台も用意されており、是非一度観光されることをお薦めする。この天橋立の袂には『三人寄れば文殊の知恵』の文殊堂があり、その参道にはブリしゃぶを食べさせる橋立温泉宿が控えている。

 南へは中国山地の深い山があるため、これまではなかなか出られなかった。ちょうど京阪神との中間に位置する丹波篠山が南の端というところであろうか。丹波篠山は舞鶴と違い山のものがとても豊富な土地だ。黒豆といわれる大豆はご存じの方も多いだろう。紫頭巾という品種の黒枝豆の味の深いことといったらない。

 食べ物も豊富だ。果実類は山の迫った海岸ということであまり見掛けないが、海産物はほとんど鳥取と似通っており、宝庫と言ってよい。特筆すべきは春の珍味、巨大なトリガイであろう。普通の3倍はある肉厚のトリガイは、トリガイの常識を一変させる甘さと深みを味わわせてくれる。冬はブリしゃぶに間人蟹(たいざがに)だ。後者は日本海で獲れるズワイガニの中でも特に値の張る蟹で、食通をうならせるものらしい。残念ながら蟹にそれほどの高額を払う用意がなく、食べることなく終わってしまった。

 それほど面白い土地ではあるが、高速道路が出来たため、神戸大阪が1時間圏内となってしまってからは過疎化が進んでいる。土地の人は京都を意識しているが、京都市内までは車でも電車でも2時間はかかる。そして冒頭でも紹介したが京都市内の人は舞鶴を京都だとは思っていない。舞鶴と聞いて医者がいなくなってしまった病院を思い出す方もいらっしゃるだろう。医療過疎も進んでいる大変厳しい町の一つなのだ。

 しかし例のごとく私は舞鶴が嫌いではない。幼い子供達を育てるにはとても良い場所だと今でも思っている。福井との県境にある青葉山から見た若狭湾のきらめきは今でも忘れられないし、息子の通う幼稚園にホタルが踊り、あたりの川沿い一面に恋の点滅が広がった様は一生忘れることなど出来ない。

 いつまでもそのままでいてほしい風景がそこにあるのだ。

 

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2008年3月13日 (木)

龍
さすが福井黒龍酒造、キリッと辛口は見事。

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2008年3月12日 (水)

季節

季節
感じる瞬間

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新しき我が町

 故郷を思いつつ移り住んだ佐倉は、歴史ある長閑なトカイナカ(都会&田舎)である。都内まで一時間ちょい、お父さんたちのほとんどが都内まで通勤するとなると、佐倉に多くの粋な店&拠り所ができるはずもない。私自身、それ以外のことで充実させるということで良いのではないかと思っている。

 政府の干拓事業で何百年に渡り騒動を繰り広げてきた印旛沼は水質で全国ワースト3に入っているが、朝に夕に美しい姿を見せてくれる。沼には渡り鳥たちが毎年飛来し、格好のバードウォッチング場であることは間違いない。また漁師は今も柴漬漁とか笹漁などで獲れた魚やエビを佃煮として売っている。昔は実際に漁をして、現在はここで獲れたものを出すわけではないが、鰻など川魚の料理屋も多い。昔のように利根川と東京湾を結ぶ水利を考えるという時代ではないが、市民生活にも自然に関してもなくてはならない存在であることは確かである。

 歴史と言えば印旛沼の干拓事業には鳥取が関わっている。田沼の時代が終わり、天保の改革が行われている最中の事業では、人足として因幡藩の人間が大勢この地で生活させられていた。余談だが千葉と鳥取は以外と繋がりがあり、館山城を築いた里見の殿様が鳥取県倉吉市に晩年蟄居を命ぜられた因縁とか、特産物二十世紀梨は千葉産の梨が原木であったとか、調べれば面白い繋がりが結構出てくるのだ。また歴史の中でも医学において佐倉は有名所である。西の長崎、東の佐倉と言われたほど蘭学が盛んで、医者の学舎として順天堂が出来たのもここ佐倉なのである。まだまだ歴史探訪すれば面白いものがあるのだが、それはまた別の機会に。

 千葉と聞いて特産品を思い出すとすれば落花生だろう。印旛沼周囲にも落花生畑は結構あるが、そこは隣町である八街に分がある。なんといっても八街の落花生が一番とこの辺りの人達は言う。案外知られていないが、落花生の他に梨も全国有数の産地であるし、西瓜は天皇陛下御用達の富里西瓜が有名だ。また千葉は東京への野菜供給源であることも周知の事実で、本当に田畑が多く、昔ながらの農家も多い。佐倉へ来て一番に思ったのは魚が新鮮でないことと同時に抜群に野菜が安くて美味いことであった。

 そんな食材を生かした料理店が豊富にあれば外食も楽しみになるのだが、東京のベッドタウンである佐倉には、本物の家庭料理が家で待っていることもあって料理店が出来てもすぐに消えてしまう運命にある。そんな中自宅の庭で栽培した野菜と本場イタリアからの食材をうまく掛け合わせて料理を作っているのがカステッロである。味が一時より落ちたという評もあるが、やはりここは味も雰囲気もとてもよいイタリアンである。また雰囲気という点では全く正反対だが、旬の食材を生かした小料理屋として臼井の駅前にある天ぷら天輔や鰻屋川よしもよい。同じような店ならJR佐倉駅前の杉という小料理屋も酒の肴が旨い。B級でラーメンと言えば成田で有名な麺屋青山が行列のできる店として臼井駅前にあるが、私はあえて成田街道沿いにある二本松屋ラーメン上座を押したい。愛情のこもった澄んだラーメンは本当に清々しい。

 最後に紹介したいのは国立歴史博物館と川村記念美術館である。ともに日本を代表する知と芸術の宝庫と言えるだろう。私は国立歴史博物館の準会員になって毎月送られてくる博物館での研究の案内を読ませてもらっているが、日本の歴史研究の最前線へ身を置くことができる幸せを感じている。

 箱は申し分ない。要は中身をどれだけ充実させられるかが問われる町である。何より都内にほど近いためその気にさえなれば自分を磨くことが誰でも可能なのである。本来ならば千葉県全体を見渡すとか、少なくとも千葉北西部を紹介するところなのだが、私がそこまで千葉に精通していないというのが本音である。出来れば千葉のことはゆきさん達にお願いしたいところだ。

 他への思いもあって、現住所に対する意気込みがちょいと足らない気もする記事である。ご容赦願いたい。

 

 

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2008年3月 8日 (土)

故郷鳥取

 鳥取は山陰地方である。島根県とどちらが東側か判らない人が多い県である。日本の都道府県の中で最も人口が少なく、60数万人しかいない弱小県である。

 人が少ないから自然は残っている。しかし京阪神に近いにもかかわらずというところが異常で、結局企業誘致が出来ぬまま過疎化の一途を辿っているのである。

 夏の気候は日向で暑く、日陰で涼しいという過ごしやすさだが、冬は青空を拝むのが非常に難しいほど雨や雪が降り続く。昔は平野部でも膝くらいまで雪に埋もれていた。しかし最近はとても少ないと聞く。それでもやはり晴れはしないらしい。

 人間は気候と同じく暗く、ジメジメしている(人が多い)。懐に一物持っているような、そんな排他的なものは内に隠そうとしながら隠せずにいる人達だ。しかし一度県外に出てしまうとそんなことどうでもよくなってしまうかのように明るくなる人が多いのも特徴だ。

 特産品は数多い。梨、西瓜、らっきょう、長いもなどは全国でも有数の産地であるし、松葉蟹をはじめとして海産物も宝庫と言ってよいだろう。私が大好きなのは岩牡蠣で、夏になるとでっぷりしたトロトロの牡蠣を海に潜って採りながら食べていた。他にはモサエビやちょいと臭いのきつい干し鰈(エテカレイ)を炙って食べるのも絶品である。

 神話の里としても名高く、大国主命と因幡の白ウサギの話をはじめとして数多くの神話・伝説がそこここに記されている。歴史の舞台として有名なのは後醍醐天皇が船上山にお隠れになり、時勢を見計らっていたことが知られているが、もっと古い年代では近畿と出雲を結ぶ要所として国分寺などが建てられ、今とは逆に表日本として栄えていた。

 人がおらず山も深く自然豊かであれば、水はとても美味くなる。水が美味ければ米も美味いし酒も旨くなる。酒は諏訪酒造の諏訪泉もしくは満天星を飲んでみて欲しい。非常にさわやかな清流を感じることだろう。どっしりしたものがよければ青谷の酒、日置桜がよい。どちらも誇りに思える素晴らしい日本酒だ。

 行ってみて欲しいところがあるとすると、三徳山の投入堂だ。岩山の壁にすっぽりと投げ入れたかのように佇むお堂には仰天すること間違いない。

 私は生まれ育った鳥取が好きだ。人がどうであろうと、湖山池を染める朝焼けを見ながら釣った手長エビや、夕日を包み込む白兎海岸で見たたつのおとしごが私の心に今も住み着いているのだ。自転車で通い馴れた道、恋をして涙を拭いた海岸、街角の駄菓子屋、つぶれそうでつぶれない文房具屋(貧乏具店と呼んでいた)、いつも空いていたラーメン屋、買わずに読みあさった書店。みんな私の中にひっそりと佇んでいる。

そう、やはりなんといってもここが私の原点なのだ。

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2008年3月 7日 (金)

もう春

 いつの間にやら 耳あてがいらなくなった

 走るうちに 手袋をはずしていた

 梅の香りが漂い

 菜の花も風に揺れていた

Photo

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2008年3月 6日 (木)

巡り合わせ

 小児科医になったのは子供が好きだからという理由ではない。実のところ私は卒業間近まで耳鼻科医になろうと思っていた。防衛医大では担当教官制度というのがあり、耳鼻科の助教授にお世話になっていたことから自然と耳鼻科の教室に足を運ぶことが多かったからである。手術にも興味があった。通常の臨床ではちまちました作業の多い耳鼻科だが、ダイナミックな手術も多い。それ故惹かれたのではあるが・・・

 学業成績は誉められたものではなかった。サッカー部も頑張っていたし、合唱部では部員を引っ張っていく立場であり、校外の市民合唱団でも活動していたなど言い訳は幾つもあった。国家試験準備が本格的に始まる夏休み、これまでどれほど勉強が足らなかったか、過去問を見渡しながら唖然とした。しかし一つ一つこなしていく内に、これまで断片的で自分の中に収まってこなかった細切れの知識が、少しずつ有機的に繋がるようになってきた。繋がってくると勉強というものは嫌でも面白くなってくるものだ。徐々にのめり込むうちに全身がダイナミックに躍動する感覚が巻き起こってきた。人間の身体は凄い!これまで各臓器別に講義を受け、患者さんを前にして臨床実習もしてきたのに、そんな感覚はなかった。それは自分の知識不足に他ならなかった。気がつくと、朝6時から寝食を忘れ、夜中2時頃まで机にへばりついている自分がいた。

 これがずっと続けば私はきっとどでかい仕事をやってのける研究者になっていたに違いない。しかし私はたわいのない小市民なので、諸処の事情があり、夏休みいっぱいと、翌2月からの数ヶ月の信じられないくらいの猛勉強で無事4月の国家試験に合格した。そのころには一つの臓器にとらわれるのがつまらなくなり、全身にいつも細やかな神経を配する仕事がしたいと考えるようになっていた。さすれば外科か、内科か、はたまた小児科か。外科は80歳を過ぎた方々にも無理矢理手術をしているように見えるところがあったし、内科は所詮臓器別に専門を分けた集合体に過ぎなく思え、なんでも屋の小児科を選んでしまっていた。

 ただし私の母校は小児科を選んでも、初期臨床研修は全科をローテートする方式を採用していたため、2年間様々な臨床科でトレーニングを受けた。すべてがとても興味深く、どれをとっても無駄なことなどなかった。患者さんたちとのたわいのない会話もすべてが意義のあることに思え、看取るたびにもっとしなくてはならないことを感じて勉強した。そして本当の小児科医としての研修に入ったとき、初めて生きようとする小さな命を亡くし、悔しくて申し訳なくて泣いた。「子供は死んではいけない、そう子供自身のためにも家族のためにも。だったらお前がなんとかできる医者にならないとダメじゃないか。」と奮い立たせた。

 大学での研修の後全国を転々とした。その間も自分の使命を忘れたことはなかった。むしろ逆境にいるからこそ、集中して勉強し、吸収できることをどん欲に行ってきた。大湊ではむつ総合病院に出向いて小児科で研修をさせてもらった。ここの部長は小児でも特に腎臓を専門とする先生だった。広島では県立病院に出向いた。ここの部長も小児腎臓の専門家だった。そして横須賀に行ったとき、小児腎臓で世界的に有名な都立清瀬小児病院への国内留学を決めた。そこでの経験は想像を絶するものであった。以前にも記事にしたが、経験の数を言えば、一生の臨床で経験しうることすべてを一年で経験できる病院だった。

 そして今、腎臓疾患にプライオリティーを置きながら、なんでも屋を営んでいる。

 ある時は風車を手渡したりチョロQを走らせる駄菓子屋のおやじとなり、ある時は読み聞かせをする図書館員となり、ある時は合唱団員、またある時は塾の先生として問題を出して叱咤激励している。もちろん二度と目の前で命の火が消えてしまうことのないよう、毎日勉強することを心掛けながら。

 

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2008年3月 5日 (水)

ドイツも日本も似たようなもの

 ドイツ兵の4割が肥満との報道があったが、日本も似たようなものである。特に海上自衛官は艦艇という狭い中での訓練がほとんどで、意識をもって運動や節制に努めなければ生活習慣病の泥沼へはまりこんでしまう。

 横須賀で私を待っていたのは、小児科の臨床と同時に内科医長としての働きであった。それは生活習慣病の巣窟に投げ込まれたと同じで、生活を変えようなどと言う意識のない40歳独身おまけに動かないデブという相手に悪戦苦闘の日々であった。そんな隊員に税金を使って治療を施すのもバカげていると思うのだが、年季の入った隊員は仕事上では重宝がられるためなんとかしてくれと上層部からお達しがくる。そんなことよりこいつらの尻を叩いて運動させるのが一番と文句を言い続けたが、生活習慣病の専門家(というより脂質代謝疾患の専門家)から過激な意見は慎むよう横槍が入り、結局うやむやになってしまった。私は今でも無駄な金を使って健康診断や生活習慣病治療薬療法を行うより、毎日一定時間の強制運動をさせる方がよほど軍のためになると思っている。一般の方はそんなの当たり前だろうと思われるだろうが、自衛隊が軍ではないと言われるが故に事細かい事務作業&約束文書作成が多すぎて、身体を動かす暇がないのも実情なのだ。これではいざというときの役に立たないのは明白で、がんじがらめがすべてをぶち壊していることに一般市民も気付くべきだと思うのだが・・・

 これはその辺りでやめておこう。ここからは横須賀地区のことについて少々。

 折角横浜横須賀に移り住むのだからと、私は横須賀の自衛隊官舎ではなく逗子に家を借りることを模索した。横須賀と違って逗子は高級住宅地の立ち並ぶ、いわゆる高級リゾート地である。どこを見渡しても高値ばかりではあったが、ちょうど海岸からほど近い物件が手に入った。車を何度も切り返しながらでないと進めない細い路地の奥に住んだが、これが実に良かった。隣近所は実に開放的で、奥さん達は皆肩なし&短パン姿。幼稚園に通う子供達も草履が当たり前。お父さんはさすがにネクタイ姿が多いものの、休日はTシャツ&短パンなのだ。歩けば数分で黒い砂が広がる逗子海岸に出られ、海の向こうには富士山がいつも見えていた。そしてこの海岸は、逗子市民であれば誰でもヨットやサーフィン、ウインドサーフィンが格安で楽しめ、講習会も時々開かれていたのだ。ヨットの経験が少々あった私が夢中になったことは言うまでもない。もし近くへ引っ越しを考えている方がいらっしゃるのであれば、少々高くても逗子市民となることをお薦めしたい。

 食事も高級なマーケット、焼きたてのホテルブレッドを置く店など多彩で困ることは皆無であったし、イタリアンなど良い店が数多くあった。特にトラットリア・ラ・ヴェルテは歩いていける最高のイタリアンだった。子供にもちゃんと教育してくれる店で、味も抜群。逗子を離れてからも2年前に行ってみたが、変わらず美味しかった。無くなってしまって嘆いたのは一心亭。強烈な量のラーメンもそうだったが、チャーハンのうまさは半端ではなかった。ちょいと離れるが、変わったカレーを食べるなら珊瑚礁という店が面白かった。まぁ結局の所、こじゃれたレストランが多く、お金を出せばいくらでも楽しむことが出来る場所ということかもしれない。特に葉山マリーナなどはおしゃれな雰囲気バリバリで、食事も美味しく食べられる店が内にも外にもある。見逃せないのはTシャツを含むクルーの服装で、値段はかかるが非常にしっかりした素材と縫製をしているので、何年着ても型くずれしない。洒落たTシャツや短パンを探しているならば、思い切って行ってみることをお薦めしたい。

 さて当の横須賀であるが、こちらは・・・・私の感覚から行くといまいちな町である。米兵と取り巻きのギャルたちがあちこちで抱き合っている町で、通称どぶ板通りは飲むには良いかもしれないが、あまり気持の良いところではない。私は自衛隊の幹部であったので、よほど米軍内のオフィサーズクラブへ出掛けた方が、気分良く過ごせた。大学の先輩の中には横須賀をこよなく愛している人もいるので、邪険にするわけにもゆかないが、私は好きな町ではない。むしろ横須賀から少し離れるととても雰囲気のある場所が広がっている。逗子はもちろん、葉山、城ヶ崎、三崎などなど。浦賀にしてもペリー関連の歴史施設を見るのも良いところだ。三崎はマグロで有名な港町で、余すところ無くマグロを食べ尽くせる店が軒を連ねている。大勢で行き、カブト焼きを食べるのも良いだろう。

 ということで横須賀は横浜ではなく、逗子でもない、都会と言えず、おしゃれでもない町で、ちょっと足を延ばしお金を掛ければ楽しめるところと言う他はなさそうだ。人はピンからキリまでゴッタ煮で、水も空気も×。どうしてもお金の問題になるので大きな声では言えないが、逗子・鎌倉を知ると横須賀で満足を得るには相当な覚悟がいるように思う。横須賀にお住まいの方がこれを読んでいたならご容赦願いたい。無礼なおっさんの戯れ言と流すか、もしくは良いところをコメントしていただければ幸いである。

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遠い昔の記憶

 埼玉のOLさんは、とっても優しい人でした。学園祭に遊びに来て、迷彩服を纏い走り回っていた私をひきつった笑顔で見届けてくれました。

 それ以来、一切連絡が来ません・・・ 

 ええ、全く。

 そりゃそうですよね。

 以上

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2008年3月 4日 (火)

安芸の宮島

 広島と聞いて思い出すのは、北海道で出会ったペンギン'sバーで働いていたあの・・・・gawk

 なんてーのは置いといて、もみじまんじゅうに触れておかないとダメであろう。もみじまんじゅうで最も美味しいのはもちろん作りたてホカホカである。広島市内に店を構える所もあるが、観光も考えるなら宮島に行くのが手っ取り早い。厳島神社へ参拝するための参道にまんじゅう屋が軒を連ねており、いろいろな味を楽しめるのだ。粒あん・こしあん・クリーム・抹茶・チョコレート・チーズ入りなどなど。揚げもみじもあるので覚悟しないとそれだけで腹一杯になってしまう。折角だから牡蠣丼も食べた方がよいので、ほどほどに。

 もし釣りが好きなら境内以外どこでもよいので釣り糸を垂れてみるとよい。どこでもカサゴやアイナメ、ベラなどの好漁場だ。ルアーで狙ってもよいだろうし、餌なら神社前の砂地を少し掘ればいくらでも青虫たちを捕まえることが出来る。

 景色を楽しむなら鹿に気を付けながら散策するとよい。歴史ある宮島は一日廻っても飽きることのない資料の宝庫である。ロープウェーで弥山に登るのもよい。見晴るかす瀬戸内のさざ波広がる海面に陽の光がきらめき小島の群れを包み込む様は、神々の存在を感じずにはいられないだろう。

 医務長という職を除けば、広島という土地に愛着を感じ始めていた。本四架橋はしまなみ海道にもおよび、瀬戸内新時代という機運にあふれていた。そこで1年の期限が来る前に、広島での自衛隊病院勤務を希望した。住居を移す必要もなく、時々拝見していた子供達を引き続き診療できることもあって、問題なかろうと私は踏んでいた。しかし上からの返事は「当該地域での移動はありえない。」とのことであった。同じ場所での職務変更は好ましくないと説得され、やむなく別の地域への移動を拝命することとなったのである。泣く泣く広島を後にしたあの日が懐かしい。

 ということで次に来るのは神奈川横須賀である。神奈川県民気質はハッキリ言ってよくわからない。特産も?土産も?酒っ?んっ?

 しかし丁度1年だけの横須賀生活もまんざら捨てたものではなかったので、それはまたこの次。

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番外 佐世保

 医務長として呉を母港として訓練に従事していたが、寄港したのは佐世保が多かった。上陸していた期間を数えると3週間を越えていた。佐世保の港から繁華街までは徒歩数分であり、しかも安くて美味い魚をどこでも食べられた。同級生が佐世保に住んでいたのでもっぱらそこへ転がり込んでいたが、隊員達はそれこそ安くて情の深い夜の町に吸い込まれて朝まで過ごしていたらしい。

 それにしても酔っぱらって食べるあごだしラーメン(あごとは飛び魚のこと)は無茶苦茶美味かった。同級生とその奥さんとラーメンを食べて帰る道すがら、若者達が街頭でギターをかき鳴らすのを聴いた。今でこそ珍しくもないが、九州の繁華街ならではの光景だった。

 九十九島・西海へのドライブも素晴らしい景色に心を奪われた。それにもまして驚いたのは人間の明るさだった。とにかく底抜けに明るい。町の人もそうだが、自衛隊の隊員たちも比べるまでもなく声もでかいし笑い声も絶えなかった。

 ということで佐世保といえば

県民食: あごだし(次点は佐世保バーガーか)

人:無茶苦茶明るく、人臭い

県民の飲み物:焼酎以外なか!

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2008年3月 3日 (月)

広島よいとこ

 護衛艦は一隻で200~250名の隊員を乗せている。それが8隻集まって護衛隊群を作る。その中に医務長は1名である。演習で数日から数ヶ月陸を離れたとき、身体に異常来した場合に初期対応するのが医務長とそれを補佐する看護スタッフである。看護スタッフは護衛艦隊の場合男性が担当する。自衛隊の中の看護学校を卒業したスタッフで中には救急救命士の資格を持つ者もいる。こう言えば聞こえは立派なことをしているようだが、実戦があるわけではないので、すべてが訓練であり、事故も本当に少ない。とするとありえるのは風邪と水虫と擦り傷切り傷の類ばかりである。あとは生活習慣病や性病の相談だろうか・・・そんな中に紛れている本当の疾患を見逃さないようにするのが医者の務めなのかもしれず、勤務中に腹部大動脈瘤の解離とか、虫垂炎、憩室炎、心房細動、慢性腎炎などなどいろいろと見つかる。本職である小児科医として生きることなど全くできるものではなく、自分も不満だが隊員自身もなんで小児科医が医務長なのだと思いながらの一年だったに違いない。しかしこれも命のままというシステムなのだから仕方のないことで、終わってみれば良い経験になったとしか言えない。なにより検査を施すことができず、理学所見のみで診断をつけていく訓練はそうそうできることではない。何事もプラスに考えられなければ、この経験も無駄に終わってしまうだけなのだ。

 そんなこんなで呉にいたころ、広島を梅雨前線に伴う集中豪雨が襲った。安佐北区が土砂崩れに見舞われた後、呉にも集中豪雨がやってきた。坂の多い呉に降った雨は鉄砲水となって坂を下り、幾人もの人が流された。海上自衛隊からも救援活動として隊員が人命救助に出掛けた。私は運ばれてくる人のケアのためにスタンバイしていたが、結局運ばれてきたのは亡くなった人だけで、私ではなく検死担当の方に廻って頂くほか無かった。自衛隊撤収の号令が掛かり、徒労感だけ抱き、家路に着いた。雨はとうに過ぎ、久しぶりの青空が少し赤く染まり出していた。呉越の坂を登る車はほとんどなかった。ところどころ水がしみ出して来ていたが、流される心配はないものだった。坂を下りたところに人だかりが出来ていた。見ると坂の一番下のわずか数メートルだけ冠水して通行不能になっていたのだ。その向こうは全くそういった状況ではなかったため私は迂回した。通りなれた細い路地を抜けていくつもりだった。それがいけなかった。最初は数センチだけタイヤが水溜まりに浸かっただけだった。角を曲がるととんでもなく水があふれ出してくるのが見えた。あわてて引き返したが、そのころには見る間に膝下まで水が来てしまった。あとホンの数メートル先には普通の道路が広がっていた。思い切ってそちらへハンドルを切り直した。気がついたら原付はハンドルまで水で埋まっていた。必死で足をばたつかせ、対岸の道路へ辿り着いた。恐ろしい・・・あれで溝にでもはまっていたら水没した医務長として名を残すことになっていたに違いない。

 ズクズクになった服装などどうでもよくなった。しばらく水のあふれ出す道路を眺めていたところ、栓をしていたものが飛ばされたのだろうか、急に水が引いてしまった。あわや浸水という難を逃れた人達が家から出てきた。なんにしても動き始めようと原付のスターターをひねった。掛かるはずもない。タンクもなにもかも水浸しだろう。その時なぜか原付をひっくり返したらどうなるかと思いついた。そうは言っても重たい原付を逆さまにしてみるとエンジンから泥水が出てきた。スターターをひねった。ブルルンっと音が鳴り、排気ガスが出てきた。ゆっくりだが走り始めたその原付は、いつもの道を数キロ走ってくれた。そしてあろうことか町のバイク屋の前でプスンとだけ言って動かなくなってしまった。冗談のようだが本当のことで、そのままバイク屋のあんちゃんに預けて分解掃除をしてもらった。数日で元通り走れるようになった時には本当に驚いた。いやはやメイドインジャパンは本当に凄いのだ。なにせその後数ヶ月は毎日私を乗せ数十キロ走り、医務長を終えた後も時々ではあるが計8年間動いてくれたのだから。

 私は呉にいる間医務長だけをしていたわけではない。艦艇は港から出たり入ったりで、陸にいるときには基本的に私は用無しとなる。その間広島の宇品にある県立病院で研修を受けたり、江田島にある自衛隊の病院で小児科医として外来を行っていた。特に県立病院は中四国では小児腎臓の中心的病院であり、部長にかわいがってもらったこともあって、勉強する機会を手にすることが出来た。魚が大好きな部長は、食べるのも釣るのも好きであった。私の住む漁港にも釣れるポイントがあり、そこを教えてあげたのもよかったのかもしれない。おかげで診療のコツも美味しい魚の店も先生から教わることができた。

 持ちつ持たれつだからというわけではなく、広島の人は誰しも世話好きに思う。島に渡っても海岸を歩いていても、声を掛けて来ては聞きもしないのにいろいろと教えてくれる。「わしの広島じゃけ、ええところじゃろう。」てなところだろう。瀬戸内の鯛も蛸もカサゴも牡蠣も最高だった。お好み焼き?それなら呉のじゅんちゃんに行かないと語れない。どこもここもそうだが、広島ではお好み焼きはおっちゃんかおばちゃんが一人で鉄板を抱えるように店を営んでいる。じゅんちゃんは世話好きなおばちゃんの店だった。薄くクレープのように生地を敷き、その上にキャベツの千切りをてんこ盛りする。イカテンを粉々に砕いてキャベツにまぶし、もやしをのせたら生地をそれにサッサッと二筋掛け、キャベツの周りへ渦を巻くように豚バラをグルグル敷き詰める。キャベツ生地をくるっと反転させて豚バラに火を通したら隣で焼きそばを作り、そこに生地&キャベツを乗せる。また隣へ今度は目玉焼きを敷き、目玉をぐじゅぐじゅに溶いたところに生地&キャベツ&やきそばを乗せる。コテで押しつぶして反転させ、半分に折っておたふくソースを掛けると出来上がりだ。小さなコテで食べないと怒られる。だけど小さい子供には無茶苦茶優しかった。まだやっていたらどこよりもまず行きたい店だ。

 おっと今日も長くなってしまった。広島は次でおしまい。何故かは次のお楽しみってことで(別にたいしたことはないけれど)。

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