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2008年2月25日 (月)

原付は楽し

 ここまで書いてきてもしやと思われた方も多いであろう。私は防衛医大という特殊な学校を卒業し、自衛隊務めを果たしてきた医者である。そんな輩が何故に小児科医なのかという疑問にはまたの機会にお話するとして、全国津々浦々自衛隊の基地へ赴くのが使命であったのだ。広島では呉にある海上自衛隊の第一線部隊である第4護衛隊群司令部医務長として年間約250日を海の上で生活していた。陸に上がれば隊員の健康管理や自衛隊の診療所(対象は隊員およびその家族)のお手伝い、そして自分の技量を維持するために週2日認められた研修を行なっていた。

 ということで呉での生活と広島という土地についてお話ししたい。

 住居は漁港のはずれにあり、海まで数十メートルという立地であった。仕事場までは20キロほどあったが、自家用車を置くスペースがなく、バスか単車で行くほかはなかった。バイクの免許は取得しておらず、かといって便利なバスがあるかというと1時間に1、2本しかなかった。仕方なく原付を格安で買い、それを乗り回し始めた。賢明な読者である皆さんなら「あれ?なぜ自転車で行かないの?」とおっしゃることであろう。しかし20キロはただの20キロではなく、峠と言われるup downが2つも含まれていたのだ。非番ならいざしらず、通勤として使うのはいかに私が後先考えないやつと思われようとも無理な話であった。

 この年で初めて乗った原付であったが、これがなんともスリリングな乗り物だった。風を切る爽快感は自転車以上であったし、渋滞の中をすり抜けるのも気持ちよかった。ただ重量にしても駆動にしても後輪に比重がかかり過ぎで、不安定なものだった。おまけに排気ガスをもろに吸い込むため、停まってしまうと途端に気分が悪くなった。

 呉市内だけでなく、広島にもこの原付ででかける事もした。3ヶ月もたてば手足のように使えるようになり、土地が狭く駐車場の少ない呉では本当に重宝した。広島お好み焼きの名店『じゅんちゃん』にも、中国人のおばちゃんばかりできりもりしていたラーメン屋にも、この原付があればこそ通う事が出来た。そんな原付に災難が訪れたのは、梅雨のあの日だった。

 さてみなさん、今回はここまで。ちょいと野暮用があって、次回は日曜までお休みです。宿題があります。
1 医務長とは何をするのでしょうか
2 呉と広島はどのような位置関係でしょうか
3 梅雨におこる災害とはなんでしょうか

 考えながらお待ちください。(待ってないって・・・・)

 

 

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2008年2月22日 (金)

自然と一体

 長いので、今日が青森の最後と決めている。どうかお付き合い願いたい。

 青森には秘湯と呼ばれる温泉が数多くある。青荷温泉ランプの宿や酸ヶ湯温泉千人風呂はテレビでも取り上げられ、もはや有名な温泉宿となってしまったが、下北にはまだまだたくさんの知られざる秘湯がある。薬研温泉と言えば知っている方もいらっしゃるかもしれないが、その奥に奥薬研と言われる秘境があり、そこのカッパの湯が何とも風情のある温泉なのだ。小さな祠のような脱衣所しかない森の中の温泉は、階段状に流れ落ちる川の傍にある。男女の区別はなく、夜になれば星の光とそれを映す獣の目しか光るものはない。一人で行くのはちょいと勇気がいるところだが、川の瀬と星の瞬きを噛みしめるには最高の温泉なのだ。

 温泉から帰る道も凄い。遅くなればなるほど、野生動物に会える。タヌキ、イタチの類は当たり前。カモシカにもよく遭遇した。大きな羽を広げてフロントガラスめがけて飛んできたミミズク?フクロウ?には心底驚いたし、おそらくどこかでクマも見ていたことだろう。

 下北ではクマと遭遇することも当たり前のことだった。住宅の裏にある公園にクマの足跡が発見されたり、クマが線路上を歩いているという警戒放送が有線から流れることも日常だった。サルやカモシカなどは皆あまり気にも留めなかった。何しろ病院の敷地内に野生の日本カモシカがうろつく自然の中の暮らしであったのだ。もっとも農業を営む人達にとってはたまったものではなかっただろうが。

 定食屋のおやじとは何度もキノコを採りに出掛けた。早朝4時には山にクマ避けの鈴を着けて入った。ナラタケ・アミタケ・ホンシメジ・ハタケシメジ・キシメジ・ナメコ・ブナハリタケ・クリタケ・シイタケ等々の他山菜も含め2,3時間の内にリュックサックが重く感じるほど採って戻った。後処理を教えてもらい、自然の恵みを十分に味わった。夜はそれをつまみに酒を飲んだ。おやじさんも奥さんもそこのにいちゃん二人もとびきりいい人達だった。おやじさんは市場から海産物を仕入れるのも上手かった。巨大なフジツボを食べた時の感動は忘れられない。もちろんホタテもホヤも子持ちのヤリイカも忘れることなど出来ない。

 これだけ長く書いてこられたのも、私が青森を楽しんだからに相違ない。娯楽施設はパチンコとボーリングしかなく、日中降り始めた雪で、車が見る間に埋まってしまうこともあるほどの雪深い町ではあったが、私は青森の話を聞く度に人事と思えないようになってしまった。

 ということで青森はこれにて終了。

 続いては広島。

 県民食:お好み焼き

 人:全般におおらかだが、ぶちきれる人も多い(でも絶対に広島を捨てない)

 県民の飲み物:賀茂鶴など(酒蔵西条では鍋に酒をぶち込む)

 故郷鳥取と同じ中国地方だが、県民気質はまるで正反対。ほいじゃけぶちおもしろうなる!?

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2008年2月21日 (木)

ねぶたこそ人生

 5年後に青森にやってきたのは研修医を終え2年限定勤務のためであった。

 この時は仕事で地元の人達としっかり触れ合った。医療の仲間も診る患者さんも地元の人達であった。週2回勉強に行った病院もそうだった。

 初めて救急診療の手伝いをしていたとき

「○△■」

と寝ながらつぶやく老人を拝見した。なんと言ったのか判らず、看護師さんの顔を見つめたところ

「先生、お腹が痛いとおっしゃってますよ。」

「・・・・・(それすらわからん)・・・・」

家に戻ってテレビをつけても、CMで何を叫んでいるのか聞き取れない。あぁもう!と叫んで窓を開けると、軽トラのスピーカーから聞こえてくる連呼する言葉が聞き取れない。とんでもないところに来てしまったと思った。幸い子供達やその両親の言葉は判る。そこから慣れ始め、子供達をつれてくる祖父母の言葉も少しずつ判るようになったのは半年経ったころだった。そのころには軽トラも

「いが~~いがいがいが~~~いが~(烏賊)」と連呼しており、CMも半分くらい判るようになった。地元の定食屋の親父とも仲良くなり、名物料理も頻繁に食べるようになった。ちょっとずつ外へ目が向き始めた頃、町内いたるところに木造の小屋があることに気付いた。尋ねるとねぶたの山車を作っているのだという。

 ねぶた祭りは夏祭りだ。8月の最初、独特のねぶた絵で彩られ、内側から光を灯した山車を引きながら跳ねるのだ。ねぶた絵師は祭りが終わるやいなや翌年のねぶた絵の構想を練り始める。2月には骨組みを作り始め、紙を貼り、色づけをしていく。手伝えばそれがどれほど難しいことか判る。一朝一夕に出来るものではない。しかし手伝えば距離は縮まる。とっつきにくかった人が、実はズーズー弁を逆手に人を笑わせるのが好きだったことに気付く。手作りは心を繋いだ証となり、跳ねる力となる。そして弾けたように跳ねるのだ。跳ねながら暗く冷たい冬がよぎり、また来るねぶたを思う。

 ラッセラー ラッセラー ラッセ ラッセ ラッセラー

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2008年2月20日 (水)

青の旅行記 後編

 霊場としての恐山は全国でも有名だ。しかし恐山が霊の没するところ(鎮霊所)とすると仏ヶ浦という下北半島の西海岸は霊の発するところとして知る人ぞ知る霊場らしい。フェリーでもそのアナウンスがなされた。あまりおどろおどろしい感じはしなかったが、何故そう呼ばれるのか知りたい気持を抱きつつ、下北脇ノ沢に到着した。バスに乗り換え、軍港大湊を目指した。

 大湊はとんでもなく美しい白砂青松の港であった。北に恐山山系の釜臥山、南に芦崎という天橋立を思い出させる松の並ぶ白砂で囲まれた入り江で、夕日に照らされた姿は息を飲む美しさであった。灰色の自衛艦隊が異様(威容)を放ってはいたが、おそらくそれがなければ国内に比類無き港として賞されるべきと思われた。

 大湊で宿を探したが見つからず、下北一の繁華街であるむつ市田名部へ移動した。駅で尋ねるとバスで1時間ほど行った烏賊の町下風呂温泉で、津軽海峡の漁り火を見ながら湯に浸かるのを薦められた。町おこしのため烏賊レースを催している温泉町の夜は、人をほとんどみかけなかった。しかし漁り火で赤く染まった津軽海峡を見ながら入る温泉は確かに格別であった。

 翌日は早起きして恐山を歩いた。硫黄の臭いで包まれた霊場にはそこここで湯気が立ち上り、石が積まれた賽の河原では赤いかざぐるまが悲しく回っていた。霊場には美しい湖が乳白色がかった青い水をたたえていた。硫黄のために魚はもちろん藻の類もはえないその湖は、うっすらと釜臥山の影を映していた。

 下北半島を南下した。JR大湊線はわずか2両の単線で陸奥湾の海岸線に沿って進んだ。南へ行くにつれ、大きく見えてきた山があった。八甲田山である。正しくは8つの頂で構成された八甲田山系らしいが、陸奥湾の根元にどっしりと構える姿は雄々しく感じられた。大湊線は野辺地という駅が終点だった。そこで特急に乗り換えた。そこから仙台まではずっと山の中。仙台を過ぎると東京まで車窓から住宅が途切れることはなかった。

 ある予感があった。私はもう一度かの地を訪れることになるだろうと。

 それは5年後に実現することになる。

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2008年2月19日 (火)

青の旅行記 展開編

 八戸を後にし、津軽海峡を目指した。

「上野発の夜行列車降りたときから 青森駅は雪の中」

「ごらんあれが竜飛岬北のはずれと 行き交う人が指を差す」

ご存じ『津軽海峡冬景色』であるが、青森に一歩足を踏み入れた時からこの歌が頭の中に鳴り響いていた。そのためもちろん行き先は竜飛岬と決めていた。棟方志功の定宿夏泊温泉を抜け、青森に到着したのは夜遅くのことだった。

 泊まるところを探そうにも駅前にカプセルホテルなど見当たらない。真夏であるし、駅の待合室で夜を明かしてやろうと椅子の上で仮眠をとった。3時頃だっただろうか、駅員と掃除のおばちゃんたちがどやどやとやってきた。掃除のため駅を閉鎖するのだという。周りを見渡すと私と同じような旅行者が数人仮眠をとっていたようで、その声に皆起き、追い出される羽目となった。実は夏でも青森は寒い。駅前ロータリーに掲げられた温度掲示板は15℃を示していた。すぐ傍に地下道があったので、そこへ向かった。新聞を敷いてごろ寝したが、防寒具がヤッケ一つだとさすがに寒い。結局小一時間で我慢できなくなり、外を歩くことにした。見上げると空は白んできていた。まだ竜飛行きの列車はない。ならば青森の港で朝日を見てやろうと歩き始めた。出来たばかりという三角ビル(観光物産館アスパム)の向こうから昇る朝日は本当に美しかった。

 津軽線を北上した。朝日にきらめく陸奥湾とそれを縁取る黒い砂浜はとても神秘的だった。砂浜に降り立ってみたいと思っていると、数分急行待ちをするとのアナウンスがあった。砂浜には夏の空気はなく、朝のひんやりとした、それでも海の香りを漂わせる空気があった。場所は違うが、東北の詩人石川啄木の『一握の砂』が心に浮かんだ。大という字を砂に書いた。もの悲しい気分だが、自分はそんな境遇にあらず、むしろ前を向いて進もうと力が湧いてきた。海の向こうに下北半島が見えた。そういえばイタコで有名な恐山が朝日の中にそびえ立っているのだとふと思った。竜飛を見たら下北にも行ってみたい、観光地図を広げると津軽線の蟹田で下北行きのフェリーが出ていることが判った。コースは決まった。まずは三厩で降り、バスに乗り換え、一路竜飛岬へ向かった。

 階段国道を登ると、竜飛岬は霧の中だった。しかしとても強い風がすぐに霧を吹き飛ばしてくれた。風は自分が断崖絶壁の上にいることを教えてくれた。左眼下にはうねりの強い日本海が、右眼下には静かな津軽海峡が広がっていた。夏だというのに寒々しい雰囲気がそこには漂っていた(もしかするとそれは津軽海峡冬景色が流れる土産物屋があったからかもしれないが)。すぐそばに青函トンネル記念館の立て札が見えた。地下深くへ続くケーブルカーに乗ると、海底駅見学と坑道見学が出来た。一時間ほどかけて見学し、岬へ戻り昼食をとった。観光案内を見ると漁師のための神社が岬の下の離れ小島にあり、歩いて渡れるという。バス停の近くなのでそこを見て帰ろうと、まずは竜飛岬の遊歩道をくるりと廻り、階段国道を降りた。小さな漁港の向こうに離れ小島の神社があった。確かに渡れる。しかし結構足場は悪い。なんとか島のてっぺんに上がりあたりを見渡すと、なるほど津軽海峡がさっきよりより近く感じた。小島の神様に手を合わせ、バスに乗るべく元のバス停に戻った。ゆっくりしたせいで時計は15時を回っていた。これなら下北で宿無しとならないで住む時間には着くだろうと帰りのバスを待った。

 10分ほど待った。田舎だから、遅れることもあるだろうと気にも留めなかった。さらに10分経過した。バス停には私の他だれも待つものはいなかった。時刻表を見た。15時台の時刻が記されていた。なお10分ほど経過したがバスは来なかった。もう一度時刻表を見た。記された15時台の時刻の横に小さな文字を発見した。季節限定夏時刻と書かれていた。「なお夏時刻は7月○日から8月○日まで」・・・・おい、3日前までじゃん・・・ここから三厩駅までバスで小一時間だぞ!どうすんねん!!竜飛岬にも民宿があっただろうが、その時は目に入らなかった。とにかく歩いた。漁港を抜けると畑すらない荒れ地の中の一本道だった。腹が立ってきた。竜飛の記念館は15時で終わるはずもない。旅行者を考えればこの時間にバスが来ないのはおかしいとブツブツ言いながらひたすらに歩いた。一時間歩いても風景は何も変わらなかった。進むも戻るも果てしなかった。

 一台の軽トラが通り過ぎた。そうだ!ヒッチハイクだ。萎えそうになっていた心が少しだけ動き始めた。歩きながら車を待った。しかし軽トラの後は何もこなかった。さらに1時間ほど経過しただろうか。あたりが少し赤くなり始めた時だった。一台の小さな乗用車が後ろからやってきた。無我夢中で手を振った。通り過ぎた。膝に手を着き始めたころ、3,40メーター過ぎたところでその車は停まった。駆け出した。満面に笑みをたたえていただろう、車の窓を覗き込んだ。中では女性二人が言い争っていた。

「ちょっとどうして停まるのよ。」

「だって可哀相じゃない。こんなところ誰も通らないよ。」

「変な人だったらどうするのよ・・・あっ・・・」

私に気付いた二人は争いを止めた。「どうしようかと途方に暮れていました。ありがとうございます。」と告げると運転していた女性がどうぞと声を掛けてくれた。助手席の女性はふくれっつらをしたままだった。二人は埼玉の人だった。当時私も埼玉にいたので、会話はすぐに弾んだ。ただ助手席の人はほとんどしゃべらなかった。眼鏡におかっぱのチャーミングな女性は都内に通う1歳上のOLだった。30分ほどで蟹田に到着した。フェリーの出航までまだ1時間ほどあった。折角だからと彼女はその間、車から降りて桟橋の休憩所で話しをしながら待ってくれた。仕事のこと、旅行のこと、一緒に来た女性のこと、どれもこれも新鮮な話しで面白かった。私は相づちを打ちながら聞き役に徹していた。そして別れ際に所沢に住む医学生であることを告げた。フェリーのデッキから片手を振った。もう片方は彼女から手渡された連絡先を握りしめていた。

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2008年2月17日 (日)

青の旅行記 前編

 仙台では楽しい夜を過ごした。予備校時代のなんとも言えない宙ぶらりんな、自分が何者でもなく、そう原石のつもりでいるにもかかわらず吹きだまりの塵のようにも思え、もがこうとすれど押し戻されてしまうような、そんな時代を共に過ごした懐かしさに浸った。そして今学んでいる事、これからの夢を語り合った。もちろん妙齢の男若い健康な男二人が酒を酌み交わせば、色っぽい話もあった。そちらの方が多かったかというと、もう遠い昔の事なので、忘れてしまった。

 翌日は北を目指した。盛岡を抜け、平泉を経由し、遠野についた。遠野でしばらく過ごすつもりでいたが、同じ列車に乗っていた団体客が遠野で降り、見渡せば人だかりが出来ていたので、気持ちがなえてしまった。そのまま太平洋へ出て、リアス式海岸を車窓より眺め、久慈を通り、八戸についた。

 八戸は大きな町だった。漁獲高は日本有数を誇り、北海道の苫小牧とフェリーで結ばれる港を持っていた。そのせいか人は明るく、一目で学生旅行者とわかる若造にも親切だった。

 町を散策していると、店先の卵色したバケツに水が注がれていた。溢れ出す水を止める様子もないので、中を覗いてみた。そこには赤褐色、赤茶色、黄土色などが混じり合った突起物の集合体が浮かんでいた。ちょうど店の中から出てきたおばあちゃんに尋ねると『ほや』だという。不思議そうに眺める私を尻目に、どこからか取り出したナイフで突起を切り取り、水で少し洗って私に差し出した。「んだば、ぐえ」(食ってみろってことか?それにしても外側と違って内側はヌメッとしてるな〜〜〜くそ、えい!)「うまい!!おばあちゃん、これうまいよ。」「うめぇ〜べ。おめぇ東京か。ならいぢごにば食え。」といって大きな缶詰を手渡された。『いちご煮』と書かれた八戸名物のその缶詰は、ウニとアワビが入った汁物であった。暖めていただくと、海の味がした。ただ缶詰のまま食べるとなんとも味気なく、これを炊き込みご飯に使うと強烈にうまいという事がわかったのは数年後のことだった。

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2008年2月15日 (金)

お国自慢

 島国根性がそうさせるのか、人類の帰属意識がなせる技なのか、お国自慢は古今東西どこでも繰り広げられるものだ。ほほえましいものから、相手の文化を理解できず戦争にまで発展することもありえるから一概に端から見ていて面白いと言えるわけではない。それでも多くは少しの驚きと、ちょっとの優越感と、そして多くの自己顕示欲を持って行われるため、テレビの題材としてもうってつけなのだ。

 『お~い日本、今日はとことん○○県』はもちろんのこと、旅行番組でも『ぶらり○○各駅停車の旅』を始めとしてお国自慢は満載だ。最近では『秘密のケンミンshow』なるバラエティーも盛況で、県民の遺産を番組が認定している。

 かく言う私もお国自慢は大好きだ。吉田戦車作『ぷりぷり県』を愛読し、「こうもり農家:背中にコウモリのはねをつけ、狭い山間の田畑を耕す農業」とか「県頭巾:県民に愛用され、会社でも学校の体育ですらこれを付ける県民服」、「む:関連する言葉に愛着を感じ、極度に贔屓してしまう代表文字」などに笑い転げながら自らの田舎との合致点を探していた。

 ということでちょいとしばらくはお国自慢話にお付き合い願いたい。といっても私の出身県だけを話してもつまらないので、まずは私が勤務してきた地方の特色を他県出身者として紹介してみる。

 まずは青森から。

 県民ジュース:りんごジュース(ねぶた絵付き、できれば紅玉が美味)

 県民食:みそ貝焼き(ほたての貝殻にホタテ貝柱とネギ、きのこなどをのせ、卵と味噌をからめてぐつぐつ煮る)

 人:うちとけると面白いが、寝ても覚めてもねぶたのことだけ

 ここの人達はこれしかなかろう。実は青森との接点は20年前に遡る。当時学生の私は、予備校時代にじゃれあっていた仲間のいる仙台に遊びに行くついでに北東北を巡る旅をしていた。長い夏休みを利用してあてのない旅をしていたのであるが、竜飛岬が見たくなり、そこを目指した。各駅停車あり、ヒッチハイクありの無謀な旅であったが、なにより驚いたのはまさしくそこは水上勉の書いた『飢餓海峡』。荒涼とした砂浜と人智の及ばぬ自然の美しさがそこにはあったのだ。

 続く

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2008年2月14日 (木)

本当の日本

 景気は減速気味だがゆるやかな上昇は続いていると政府が言う。しかしサブプライム問題でこれから先行きは暗いと経済アナリストは言う。現に株価は値下がりを続け、円はその価値をどんどん下げている。大衆は不況なんだと報道局が声を荒げ、野党は政府のせいで格差が広がり、儲けるけしからんやつと、清貧に生きる大衆との分断が進んでいると叫ぶ。

 どこに本当があるのだろう。

 頑張って、知恵を働かせ、身体を酷使して稼ぐことはけしからんことではないだろう。頑張らないで欲望の欲するまま生きて貧しい生活となった人にこそ義はない。頑張っても報われない人、心身の病のために頑張ることの出来ない人、そういった人達の手助けをすることは政治としてもちろん必要だ。しかし弱者救済ばかりを言えば票にはなるが、国の推進力は失われていく。

 最低限の生活保障として生活保護を受けていながら車を所有したり、エアコンのある暮らしをしている人もいる。それを見て当然と言う人もいれば、それは最低限の生活環境ではないという人もいる。少なくとも生活保護を受けていれば、医療も受けられるし、学校にも行けるし、飢えることもないのが日本だ。

 底辺とはどこにあるというのだろう。

 週末に船橋へ用を足しに出掛けた。JRの駅はチョコレートの出店が並び、行き交うのも難しいくらいに人であふれていた。これだけのチョコレートが2/14日本国中一斉にばらまかれることを思うと、いったい不況とはどこの国のことかと疑いたくなる。私の机の上にもすでにチョコが並んでいる。国を挙げてメタボ撲滅を叫び、小学生まで腹位と血液検査、血圧を測定してメタボ予備軍として学校で対処するなどと言っている時代にチョコばらまきもないだろうと思うのだが・・・いや小学生のメタボ予備軍扱いが正しいことと言っているのではない。むしろ私はそんな無駄をやめて、しっかり皆に運動させるよう教育指導するだけで良いと思っている。余計な金と時間と人を使い、そして無用のいじめを増やすだけなのだ。

 日本をどういった国とし、どういう人間を作りたいというのだろう。

 おっと、いえ、チョコを下さった方にいちゃもんをつけているのではないですよ。もちろんうれしいですし、おいしく楽しませて戴きます。

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2008年2月13日 (水)

子供を守る

 昨日2ちゃんねるの掲示板に『千葉の女子小学生を15日に殺しちゃう』という書き込みがなされたらしい。保護者会を通じてこの書き込みが学校および父兄に知らされ、当分の間の集団登下校と、短縮授業を行うことが通知された。全く卑劣な行為である。書き込みだけでも立派な犯罪だ。厳重に取り締まって欲しい。

 それにしても昨今幼児をねらった凶悪犯罪が後を絶たない。犯人はほとんどが成人であり、幼児に性的な感情を抱いての犯行が多い。卑怯・卑劣・鬼畜と言う他はなかろう。人間の感性や感情が千差万別であるが故に、幼い子供へ性的な感情を抱くものが世の中にいることを否定するつもりも、それだけで悪だと言うつもりもない。しかしその感情を具現化するのは言語道断である。厳罰に処して欲しい。

 昨日の昼のニュースでは、栃木と群馬の県境でこれまでに5人の幼女が凶悪犯罪に巻き込まれたと報道されていた。いずれも週末にパチンコ店などで親が子供を放っておいた際にさらわれたようだ。そのような場所に子供を連れていく親も親だが、だからといってそこにいる子供をさらって悪さをしていいはずもない。まだ犯人は捕まっていないとのこと、早急の解決を望みたい。

 こういった事件が起こるたびに、児童ポルノの話しが出てくる。成人向けの男性用ポルノでもそうだが、対象となる被写体は必ずしも活用を望んでいるわけではない。とりわけ児童ものは望むはずもなかろう。故に児童ポルノと言わず児童レイプとして取り締まれという意見が出てくる。これに対し表現の自由を唱える輩がいるが、こと性に対し文化的タブーを設けることが表現の自由を奪うこととイコールとは思えない。むしろ性器を公衆の面前に露出し続ける日本の現風景こそが異常というべきではなかろうか。児童ポルノが幼児への凶悪犯罪を引き起こす直接的要因であるとは言わないが、有って良い物とは思えない。ユニセフの提言だけでなく、我々小児科医も断固として反対するべきであろう。

 なにより今後一切幼児への凶悪犯罪が起こらないことを切望するばかりである。

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2008年2月10日 (日)

巨大な蜂の巣

巨大な蜂の巣
千葉中央に出現した人喰い蜂の巣?

実はこれプラネタリウム。ここ千葉市立科学館は産官合同で作った新しいタイプの体験施設。大人も楽しいぜぃ。

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2008年2月 5日 (火)

そして雪 (後編)

 翌朝電話が鳴った。日曜の朝、子供達はラグビーの練習に出掛ける。しかし雨などで練習が不可能(王様らぐび~)な場合、電話連絡網で知らせが届くのだ。

「雪が積もっていて、しかもこれからもっと積もる予報が出ているので練習はなし。」

嘘だろう?と思いながらカーテンを開けた。およそ雪とは呼べないシャーベットがうっすらと地面を覆っていた。確かに幼い子供達が自転車で集まるにはちょっと危ないかもしれないと思いながら、子供達へ練習中止を告げた。

「雪なんでしょう、お父さん。」

「雪じゃない、みぞれだ。」

「だって積もってるじゃん。」

「だからシャーベットだ。雪じゃない。」

「雪だよ、雪合戦できるよ。」

「できない。水ばっかりだ。」

 朝食を食べ散らかし、子供達は外へ飛び出していった。、手袋がすぐに濡れ雑巾のようになるシャーベットを握り固め、シャーベットだるまを作り、シャーベット投げを楽しんでいた。重く、結構固い球は痛いらしく、次男が長男の非道を言いつけに来た。仕方なく外へ出ると、長男が勝ち誇ったように

「ねっ、雪合戦できるよ。」

言葉が終わる前に一発大きいのをおみまいした。それからは上着まで水がしたたり落ちるくらいぶつけられ、投げ返した。小一時間したところで、むかいの親父がスコップを持って登場した。冷えて固まる前に掃除しておかないととのこと。私は子供達にスコップを手渡し家の前の道路を指さした。

「雪かきしなさい。」

「・・・・・・・シャーベットかき?」

「うだうだ言わず、はよせんかい!」

シャーベットはそれ程の厚さがないにもかかわらず、とっても重かった。

 

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研究会とその後(前編)

 先週の金曜は千葉市で研究会があった。小児膠原病研究会というかなりマニアックな研究会で、参加者も30人ほどであっただろう。今回はリウマチ性疾患に対する治療の最前線として生物学的製剤についての公演があり、日頃使うことのない薬剤について勉強した。学術雑誌や学会で知ってはいたが、作用機序や効果、そして副作用など気を付けるポイントをこの会で知ることが出来た。

 いつもならどんどん質問が湧いてくるのであるが、とてもわかりやすく、そして要所をはずさない公演であったため、浮かんでくる疑問がその都度解決されてしまった。鹿児島大 母性小児看護学の武井教授、おそるべしである。

 公演終了後にレセプションがあり、同僚と共にそれに参加した。小児腎臓を専門とする他院の医師も見掛けたので、ちょっとずつ話しかけながら、ホテルの料理をつまんだ。しかしいつも思うことだが、なぜあのレセプション料理は味気ないのだろう。なにより愛情を感じないのがいけない。一つ一つの味は悪くない。統一性をもってオードブルからスタートし、コース料理よろしく食べていけばよいのに、食べたいものを先に取ってくるからダメなのかもしれない。出された瞬間に食べられるわけでもなく、放置されているものを食べているのだから仕方ないかもしれない。そう言いながら腹を満たしてさっさと帰路についたのだがら、そんなことを言えた義理もないのだが。

 翌日は昨夜の復習をした後土曜外来をやっつけた。昼過ぎに仕事を終え、京成臼井駅裏の『麺屋青山』へ久しぶりに寄った。成田ラーメンの超有名店の姉妹店で行列は当たり前なのだが、たまたま席が空いていたので入ってしまったのだ。実はこの店のラーメンはあまり自分の好みではない。しかしなんとなく味が忘れられず、ごくたまに食べたくなるのだ。いつもと同じように白濁魚介を注文した。ずずずっず~~~っ、おっ、ちょっと変わった?美味くなってる!店の奥を眺めると、以前より厨房が賑やかだ。そうか人が増えて、本来の味を出せるようになったのかも・・・それまではたくさんの客が来ていても一人で賄っていてにっちもさっちもいかなかったのかもしれない・・・

 気分もお腹も満腹になり、そのままヘアーサロンへ直行。気になっていた髪を整えてもらった。髪を切りセットする店長と洗髪&肩もみする助手がいるこの店で、ここ2年間セットしてもらっている。ここに来るまではずっと刈り上げ君だったのだが、店長と出会い、いまどきのスタイルにされ、「どうよ、俺?」って鏡を見てしまうようになった。もっとも同じようなスタイリングは自宅で出来ず、結局手櫛でササッとやっつけてしまうだけなので、その日限りのヘアースタイルなのだ。また洗髪してくれる助手も良い。15分ほどシャカシャカボリボリ頭皮をモミモミしてくれると意識が異次元へトリップしてしまう。これでもう少し肩の指圧が上手ければ完璧なのだが、それは彼の勉強次第であろう。

 気分良く帰宅すると、明日は雪が降るのだと子供達が騒いでいた。ただ天気図を見返してみても、寒気が上空にそれ程残っておらず、低気圧が進んできてもみぞれくらいだろうと予想し、そう子供達に告げた。絶対降るもん!と怒り出す三男に、みぞれだけだよと語気を強める自分の大人げなさにちょっと反省しながら、井上靖の『風林火山』を寝ころんで読み始めた。最後まで読みきったころ、急にゾクッと寒気を覚えた。周りの空気が冷えてきていた。布団に潜り込んでもなかなか寒気が治まらない。久々にフリースまで着込んで眠ることになった。

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五里霧中

五里霧中

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