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2006年9月12日 (火)

正義と悪

あの日テレビをつけると、わずかに煙がたなびくビルに一機の飛行機が突っ込んでいく瞬間が映し出された。

一体なんの映画の前ふりなんだろうといぶかしんでいると、ニュースステーションの司会者はたった今入ってきた映像だという。「えっ、それじゃ・・・もしかしてテロ??」そう思いながらテレビに食い入っていると、その前の一機目が突っ込んだ瞬間が流れた。「間違いない、テロ攻撃だ。」そうこうしているとビル火災は激しさを増し、突然崩れ落ちてしまった。

9.11から5年が経った。

今はただ犠牲者の冥福を祈るばかりである。

さてテロ行為は断じて許される行為ではないが、それは戦闘を欲していない民間人を巻き込むという一点で許されない。

それでは通常戦闘行為はどうなのか?湾岸地域では民間人は殺されなかっただろうか?我が国における原爆の被害はどう考えるであろうか?

テロに関して秘密裏に暴力行為を行うのは卑怯だという人もいようが、やあやあ我こそはという時代でもなく、兵器の破壊力によって戦闘の優劣が決まってしまう現代において対抗措置としてゲリラ活動が認められないということはなかろう。核兵器などで首根っこを押さえられ、無理難題を押しつけられても黙って耐えろというのはそれこそ理不尽であろう。

アメリカの正義は世界の正義ではない。イラクの人達にもレバノンの人達にももちろんイスラエルの人達にもそれぞれの正義がある。どれがよくてどれが悪いというものでもない。

9.11はそれを考える機会ととらえたい。

そして日本がどこへ向かっていくべきなのか皆で考える時が来たのだと叫ぼう。

利害だけでなく、建設的な世界のありかたについて語ろうではないか。

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コメント

正義とは暴力ではなかろうかと最近思っております.何故ならば権力こそは暴力であり,政治はその最たるものだからです.ですから外交も戦争もテロも正義を訴えるのでしょう.
だからこそ,声高に訴える正義は疑ってかかるべきだとも思います.
自ら信じる正義を訴えるのも威圧的にならぬよう気を付けねばと反省する毎日です.
そう考えると,我が国の正義とは.
難しい命題です.

少なくともアメリカの正義は昔から偽物であることには異論はありません.彼らは始めて本土を攻撃されヒステリーを起こしてしまっているように見えます.その状態こそがテロリズムの目的のようにも思えます.

投稿: N | 2006年9月12日 (火) 18時51分

あの事件の重大さは 死者の多寡だけでは
ないですね。
背景に何があろうが 米本土が攻撃された
ショックは計り知れない恐怖を与えたに違いない。
まして自国の空港を飛び立った旅客機が
利用されるなんて
米国民ははらわたが煮えくり返ったでしょう。

投稿: 犬と猿       | 2006年9月12日 (火) 20時41分

Nさん

初めまして。アメリカの対応はまさしくテロを起こした人達のねらい通りだったでしょう。
ただ正義とは暴力だというのは、わかっていらっしゃるとおり違うものですよね。

正義と思われることがあって、それを行使するためないしは守るための手段の一つが政治であり、外交であり、戦争という外交暴力であるはずです。
かのガンジーは外交暴力を否定し成果をあげた人物ですが、その場合相手に良心があるという前提がなければなりたちません。今回のイスラム対米英という図式は、イスラム側からすれば教義への冒涜が根っこにありますから米英が暴力なき抵抗をしたとしてもテロは益々ひどくなっていたことでしょう。

となるとおのおのの正義を守るためにどうしたらよいのか・・・そこに答えはありません。世界が一つになればとおっしゃる方もいるかもしれませんが、現実的ではないでしょう。理由は人間には欲があり、信じるものも違うからです。世界に顔の利く『越前の守』が出てくれば別ですが。

投稿: クーデルムーデル | 2006年9月13日 (水) 08時33分

犬と猿さん

米国民の怒りと悲しみはすさまじいものだったと思います。追悼集会が世界に中継されるのももっともだと思いますが、同時に中東の破壊し尽くされた街をも映像として流すべきです。イスラムはすべて戦闘員というわけではありません。女子供も多数殺されています。

ただアメリカのすごいところは、一時的な爆発的感情を省みる力があると言うところです。反対意見を言えるというところでもあるでしょう。

悲しみの中から何が世界にとって必要なのかを考えられるようになれば世界が変わってくるようにも思えます。日本人が敵対国に攻め入って領土や資源を分捕ろうとしないのと同じようにです。(日本に欠けているのは自国を守ることも出来ないという点でおかしいと私は言い続けているのです。)

投稿: クーデルムーデル | 2006年9月13日 (水) 08時44分

言葉足らずでした.ご指摘の通り正義=暴力ではありません.
だけども,価値観が違うもの同士がお互いの正義を主張するとそこには相手を支配しようとする意図が働くはずです.そこに物理的な暴力が介在しようがすまいが関係なく,相手を支配することは暴力になるのではないでしょうか?
アダム・スミスは「職業としての政治」の中で権力とは他者を支配する力であり,つまるところ政治とは暴力であると述べています.暴力というと血が流れることに限定しがちですが,広く世界には血を流さない暴力が氾濫しています.一つの言葉,一瞬の表情,時にはためいき一つで深く人を傷つけることがあります.更には心理的に相手を支配することだけを喜びとする人たちも多く見かけます.それらも間違いなく暴力でしょう.会社・団体,そして政府・国家の暴力を語る上でその構成員に対する制限はいかに必要なものであれ“暴力”なのだと言う認識が必要ではないかと思っています.
その視点から見れば無抵抗主義を人々に強い,敵の良心を支配することを手段としたガンジーすらも暴力的な手法であると言えるのではないでしょうか?
つまりは暴力は避けられないものであって,その善悪は当事者の主張ですらない.正義はそれぞれが主張する善であり,ほぼ全ての国家的暴力(広義)の背景に存在します.
だからこそ,大切なのは己の正義.だが,その主張はとても難しいと思います.

投稿: N(元・職人.やめたわけじゃあないけど) | 2006年9月13日 (水) 09時24分

Nさん

なんだレンガ職人さんでしたか。失礼しました。

う~ん、政治も暴力と言われると多数決による民主主義が崩壊するわけで、納得できかねます。powerであるかもしれませんが、force or violenceではないのですから。とりあえず政は大多数の自国民の平和と安全と富を守るために行われることであり、それがそっくり他国にも当てはまるかと言われるとそうではなく、他国にとって不利益である場合は衝突という暴力が起こりうるということでしょう。そう書いていると、結局職人さんの言っていることと同じになるんですけどね。

確かなことは我々日本人はそういったpowerに対して、賛成でも反対でも声を挙げられるという環境にあるということでしょう。それを認めない国はやはりこの先内部崩壊していくように思います。

投稿: クーデルムーデル | 2006年9月13日 (水) 10時34分

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